どうしようもなく羨ましくどうしようもなく辛かった体験からの脱出

  
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どうしようもなく羨ましくどうしようもなく辛かった体験からの脱出

2003年の私のことです。

 

私は子どもが欲しくても
できなかった経験、

やっと本当にやっと授かった命を
流産して失った経験をする中、

 

 

まわりの子どもがいる人たちが
うらやましくて
うらやましくて
しょうがなかった。

 

とくに流産して入院した病院が
妊婦さんがいっぱいでした。

 

 

6人部屋の同室にも妊婦さんが
数人いました。

 

 

赤ちゃんの生まれたての泣き声、
「おめでとうございます」という声
が聞こえる中でいた時間・・・

 

 

あの経験は本当に
辛かったけれど、

 

 

今では体験する意味が
あったのだと思えます。

 

 

その後再び妊娠できたことは
奇跡にちかいことでした。

 

 

でも今、娘がいる喜びをこのfacebookや
外に表現していても
陰で辛い思いをしている人のことは
いつも忘れていないです。

 

 

同時に

 

 

「喜び」側にいる人は
そのまま素直にその感動したこと
嬉しいと感じたことに対して
表現していいと

私は今では思っています。

 

 

私は、その流産をして
うちひしがれていたときに
元夫の妹(私と同い年)が
3人目を授かったというニュースをきき、
さらに落ち込みました。

 

 

よく元夫の実家にも妹と
その子どもたちはきていて
3人目を授かった喜びを
そのまま私の前でも表していました。

 

 

その時は何で子どもを失って
悲しんでいる私の前で

そんな子どもを授かった喜びを
ふつうに表現できるの?

と辛かったのです。

 

 

でも後からは

それはそれでいいんだ、
良かったんだと思いました。

 

 

その時には自己観察なんて
知らなかったから、

 

ものすごくネガティブな感情がでても

それをどうしていいのかわからず
時間がかかったけれど、

 

 

それを乗り越えて「娘」を授かって
出産したときには

自分の湧いてきた深い深い喜び、
感動、嬉しい、幸せな感情を
表現しました。

 

 

その時に仮に自分が流産の辛さ、
子どものできない人の苦しさ辛さを
知っているからといって、

 

自分が子どもを授かって
無事に出産したときに

その人たちに悪いと思って
「喜び」をそのまま表さないとしたら、

 

それは自分をいじめていることだ
と思いました。

 

 

と同時に自分の喜び、
感動を表現するということは、

 

 

「今そのとき」辛い人は、
永遠にそのままの状態ではないし、

その人が次に「喜び」を
表現したいときには思いっきり
表現していいんだよということを
信じていることだと思いました。

 

 

私が流産して入院した時に
同じ部屋にいた出産が終わったばかりの
幸せいっぱいの人だって

過去は辛い思いもいっぱいした末の
嬉しい出産だったかもしれない。

 

 

だから、「喜び」「感動」を
経験した人は

 

それを素直にだしても
思いっきり嬉しさを
表現してもいいのだと
思えるようになりました。

 

 

「経験」体験した経験と
体験しなかった経験があり、
どちらも尊いものだと思います。

 

 

私は、なんだかそんな気づきに
たどり着けた時に
自分自身がとても癒されていました。

 

 

私たちは一人一人
自分にしかできない
気づきや癒し方があると思います。

 

 

私は、「喜び」側に「今」いない人も、
その人の中にはすべて
「ある」と思っています。

 

 

そしてその人が
「悲しみ」や
苦しんでいるところから

「喜び」を体験できる強さを
持っていると今では
心から信じています。

 

 

私も、

これまでの人生で
流産のことだけでなく
様々な体験をしてきました。

 

 

その渦中にいるときは、
どれだけネガティブな気持ちに
なっていたことでしょう。

 

 

でも、どれもこれも
私の経験した体験は、

今は全部
「宝」となっています。

 

 

いろんなネガティブな状態から
体験した意味を知り、肯定できて
感謝に変えることができました。

 

 

そう「思おう」とするのではなく、
心から自然にそう「思える」ようになりました。

 

今、

 

私は本当に幸せだな〜〜!
と心から思ってます。

 

私は本人は持っていると
気づいていない「強さ」を

自分で発見できた時の
喜びの体験をしてほしいなと思います。

 

 

そういう思いで、
私は今の仕事をしています。